はじめに
筑波大学の全学生の,一割近くが選択している総合科目「テクニカルライティング」のエッセンスを,この一冊にまとめた.本書の元となった講義では,事実や技術に基づく情報発信を仕事としている我々著者一同が,それぞれの専門を超えて,伝えるための秘訣,楽しさ,あるいは七転八倒など本音を伝えている.
科学や技術,そして事実を伝えるテクニカルライティングには,言葉の力,発想の力,どうしても伝えたいという情熱の三つが必要である.言葉の力,すなわち語彙や文法の知識は絶対に必要で,母語だけでなく外国語の力も役に立つ.何をどういう切り口で言葉にするかという発想の力も,相手の立場で説明するためには欠かせない.この二つについては,もって生まれた才能もあるかもしれないが,勉強すれば必要な力を身につけることは可能であろう.しかし,どうしても伝えたいという情熱を習うことはできない.多くの仕事が業務マニュアルどおりに行われる今日,テクニカルライティングもマニュアルに従ってそつなく行われるのが通例である.技術はあっても情熱が欠けている.そして,情熱が欠けているので,科学や技術,なにより自分を楽しく伝えることができない.
ところが,伝えたいという情熱は厄介な相手でもある.熱い情熱は,語り手を蘊蓄だらけの何とか名人にしてしまい,小言幸兵衞にしてしまう.これでは受け手はめげてしまう.かといって,情熱を冷ましてしまっては旨くなく,受け手は食いついてくれない.熱いものは熱いまま,しかし,上手に料理して隣の人に分かってもらえる言葉にすること,そう,伝えたい情熱をコントロールすることがテクニカルライティングの真髄であろう.我々が,そういう問題にどう向かっているか,単なる伝える技術ではなく,何を考えて伝えようとしているかをご紹介できたらと考えている.
2009年4月
編 者
イントロダクション――「伝える」とはどういうことだろう――
「伝える」とはどういうことだろう
ある人が,「見つめるだけで伝わらなくなったら恋は終わり」といったそうですが,本当でしょうか? 相手のことを知りたい,自分のことを知ってもらいたい,恋の中にはそういう気持ちが存在します.そのためには,伝え合わなければなりません.「伝える」を続けるうちに,二人にしかわからない言葉が生まれたり,コミュニケーションするからこそのケンカが起こったり,そして,あっけない仲直りも成立します.
科学や技術の専門家どうしのコミュニケーションでも,同じようなことが起きます.本人たち以外には意味不明の専門用語,激しい議論,なのに,コーヒーブレークでは取るに足らない雑談.
恋人どうしや専門家どうしなら,「伝えたい」相手以外には「伝えたい」内容が伝わらなくても構いません.でも,「伝える」のは,そういう場面ばかりではありません.ということは,「伝える」を考えるとき,そこでは,伝えるべき相手,内容,方法,目的…などなど,実にさまざまなことを考えなければならないということなのでしょうか?
サイエンスやテクノロジーを伝えるとき
サイエンスやテクノロジーを「伝える」ときには,正しく「伝わる」ことが求められます.科学や技術は,データや事実に基づき,論理に支えられて進むので,伝えるのは簡単だと思われがちです.しかし,専門家にとって,事実や論理を「間違えずに記述」するのは簡単でも,相手に「正しく受け取ってもらう」のは容易なことではありません.
そこで,事実,データ,技術,技能などに基づく情報発信のココロを考えようと,筑波大学で総合科目「テクニカルライティング」を開講しました.本書はこの講義の内容をもとに編纂したものです.講義を担当してくださった先生の多くが,「自分と相手」,あるいは「発信者と受け手」をキーワードに話されました.伝えることに経験を積まれた先生方も,「相手」「受け手」の存在を,そこまで意識されているということには,かえって驚かされました.
相手に正しく受けとめてもらうためには,相手が「どう受け取るか」を考えながら発信しなければなりません.多くの場合,「伝える」べき内容は,相手にとって初めての事実や概念,いままで触れたことのない"新製品"です.「伝える」内容の本質を把握する能力と,それを表現する能力が求められます.伝える相手を想定することに始まって,「伝える」ために考慮すべき要素にはきりがありません.
テクニカルライティングをどう考えるか
日本語で,狭い意味でテクニカルライティングといいますと,製品マニュアル,すなわち取扱説明書の作成ですが,本書では,事実やデータに基づいて行われる発信のすべてをテクニカルライティングととらえました.製品マニュアルについては,日本ではテクニカルコミュニケーター協会という組織が,その質の向上に取り組んでいます.その成果もあり,日本の家電製品などのマニュアルは,たいへんわかりやすく,使いやすくなりました.
一方,広い意味でのテクニカルライティングには,事実や観察結果,あるいは新たに作られた有形無形のモノを説明するという点で,大学から発信される論文や発表も含まれます.しかし,それらは専門家である私たちにとっても,決してわかりやすいものばかりではありません.ユーザーにあまり考えさせてはいけない製品マニュアルとは異なり,学術論文は議論するための素材でもあるので,両者を同じように論じるわけにはいきません.しかし,少なくとも,専門外の人たちにも,わかりやすい言葉で伝えようとする努力は必要です.博物館などから,サイエンスコミュニケーションという言葉で,そのような活動が始まっています.
サイエンスコミュニケーションは,単なる説明ではなく,発見を促し,考えさせるという教育的な側面を含む行動です.しかし,「伝える」ための技術や考え方という面では,大先輩であるテクニカルライティングに学ぶべきことが多くあります.そのため,本書ではテクニカルライティングという観点から,さまざまな分野において「伝える」ことについて考えてみました.
本書の使い方
本書を読んで得られるのは,テクニカルライティングに取り組む「姿勢」です.講義でもいわれていたことですが,本書を読んでも,「100点」がとれるレポートは書けません.作文が急にうまくなるわけでもありません.本書はじわじわと効いてくるはずです.少なくとも,書くことが少し楽しくなってくるはずです.作文の細かいテクニックや,レイアウトの技術などについては多くのすぐれたテキストに譲り,本書では,さまざまな分野で,私たちが「伝える」ことにどう取り組んでいるかをおみせします.
読者の皆さんには,その取り組みを垣間みることで,そして自らテクニカルライティングを実践することで,「伝えること」の姿勢をぜひ考えていただきたいと思います.
目次
イントロダクション――「伝える」とはどういうことだろう[野村港二・三波千穂美]
「伝える」とはどういうことだろう
サイエンスやテクノロジーを伝えるとき
テクニカルライティングをどう考えるか
本書の使い方
I 「把握する」とは――情報の伝え手
1. 発想法とまとめ方 [野村港二]
(1)ディテールも本質も大切
(2)なぜテクニカルライティングに発想が必要なのか
(3)自分の発想と他人の発想
(4)発想を引き出す発想法と,考えをまとめる方法の区別
(5)発想法
(6)発想を収束させる方法
(7)自由奔放と責任
(8)私の場合――発想プロセスに欠かせない小道具
2. 「見ること」と「観ること」 [井上 勲]
(1)「みる」ということ
(2)「観ること」と「理解すること」
(3)専門家の眼
(4)教養ということ
(5)見るから観るへ
3. 伝えたいのはデータ? それともインフォメーション? [野村港二]
(1)ジェームズ・ボンドにみる「情報」の意味
(2)情報という日本語
(3)情報から,データとインフォメーションへ
(4)情報,データ,インフォメーション,そしてインテリジェンス
(5)テクニカルコミュニケーションにおける事実と意見
(6)データのみせ方と読み方――グラフを例に
(7)グラフで嘘をつこう
4. 「むずかしい」文を添削する――やさしい文への直し方 [野村港二]
(1)自分の作文を添削する
(2)日本語の特徴
(3)実際の添削での練習
(4)べからずに学ぶ
Column 1 誰にでもわかるように伝える [野村港二]
II 誰が相手でも――情報の受け手――
5. ありのままに言葉で表現しよう――木の葉を観察して,言葉で記録する [鳥山由子]
(1)イメージを言語化する
(2)ツバキの葉を観察して,言葉で表現してみよう
(3)触覚で気づきやすいもの,気づきにくいもの
(4)観点を立てて観察する
(5)テクニカルターム(専門用語)の便利さ
(6)気づきを促す材料の選択
(7)もっと詳しく具体的に表現してみよう
(8)葉の硬さ,しなやかさ
(9)もう一度,ツバキの葉を表現しよう
(10)「変異」と「品種」
6. 科学における異文化コミュニケーション [王 碧昭]
(1)コミュニケーションの背景
(2)三つのポイント
(3)整理と準備
Column 2 日本の伝統からのメッセージ [野村港二]
Column 3 コミュニケーションの基本ルール――文章・通信の取り扱い方 [渡邉和男]
III 目的は何――目的
7. 技術を表現する(1)――議論文・説明文の書き方 [掛谷英紀]
(1)プラクティカルな作文
(2)説明文と議論文
(3)下意上達の文章
(4)敵を知る前に自分を知る
8. 技術を表現する(2)――発明と特許出願 [佐竹隆顕]
(1)特許を受けることができる発明とは
(2)特許出願に必要な書類
(3)出願および特許取得
9. 科学論文とは [杉浦則夫]
(1)表題
(2)著者名
(3)概要
(4)緒言
(5)方法
(6)結果
(7)考察
(8)結論
(9)謝辞
(10)引用文献
10. 科学者はなぜ,どのように論文を書くのか [岩井宏暁]
(1)科学論文執筆の流れ
(2)研究テーマ設定の重要性
(3)論文の執筆と投稿先の決定
(4)レフリー制度
(5)インパクトファクター
(6)英語の壁
(7)カバーレターの重要性
(8)論文審査結果への対応
11. 英語論文を書くための基本テクニック [テイラー,デマー/楠 真吾・野村港二 訳]
(1)書き始める前に
(2)論文の構成
(3)よい段落の書き方
12. 伝えたいこと,伝えること,伝わること [袰岩奈々]
(1)なぜカウンセラーがテクニカルライティングに?
(2)ソラマメの形を伝える
(3)コミュニケーションツールとしての感情
(4)気持ちへの注目
(5)感情に気づくということ
(6)矛盾する感情
(7)自分でも抑圧しがちな感情
(8)内面を整理する
13. 聞き手を納得させるプレゼンテーション [森山裕充]
(1)プレゼンテーションの種類
(2)卒業論文,修士・博士論文発表
(3)学会発表
(4)口頭試問
(5)訪問先での自社説明
(6)取り引き先との契約書締結
(7)社内業務支援要請
(8)電子メールによる業務連絡
Column 4 サイエンスコミュニケーション [メニウェザーズ,ジェニファー]
IV 手段は,文それとも絵――手段
14. 文字による表現――文章の書き方 [野村港二]
(1)文字による表現の特徴
(2)テクニカルな文章はいつ読まれるか
(3)日本語文法,用字と用語,スタイルマニュアル
(4)国際単位系と専門用語
(5)パラグラフライティングと段落
(6)書く道具
15. 「伝える」を仕事にしてきた人 [三波千穂美]
(1)職人の来た道
(2)マニュアル作りをする人は
(3)メーカー今昔
(4)ユーザー理解はしなくてよい!?
(5)モノが変わったのに…
(6)最近のマニュアルって…
(7)情報が探せないマニュアル
(8)ヒットパレード?
(9)アナログとデジタル
(10)ビジュアルとテキスト
16. マニュアルの最適設計を考える [海保博之]
(1)マニュアルの五つのユーザー支援機能
(2)操作支援
(3)参照支援
(4)理解支援
(5)動機づけ支援
(6)記憶・学習支援
(7)マニュアルの今後
17. ビジュアルに伝えよう [野村港二]
(1)絵だけではわからない
(2)絵と文章のコラボレーション
(3)テクニカルコミュニケーションにおける絵と文章
(4)絵と文章の独立性
(5)レイアウトデザイン
(6)スライドやポスターの作成
18. スポーツで心を打つ――表現スポーツにおける訴求技巧とは [本間三和子]
(1)表現スポーツの訴求技巧
(2)表現とは
(3)表現力のある演技
(4)表現力とは
(5)表現技巧でごまかしは利かない――本気,本物でモノを創る
(6)人の心をつかむ――時空,人,プロを制御する
(7)人の心をつかむ構成を考える
(8)演技を創る――演技構想を練る
(9)磨きをかける
19. スポーツ表現の修辞法 [萩原武久]
(1)修辞法とは
(2)スポーツ表現の修辞法とは
(3)新聞からみたスポーツの修辞法
(4)スポーツのスタイル
(5)個人のプレーからみた修辞法
(6)スポーツの修辞は人が変わると変化する
(7)スポーツのワールドスタンダードの修辞とは
20. 地図の効果的な作成法――人類共通のコミュニケーションツール [安仁屋政武]
(1)地図の定義
(2)地図の種類
(3)地図による情報コミュニケーションシステム
(4)データの種類
(5)地図の記号と情報
(6)作図法
(7)データの分級(クラス化)
(8)地図のデザイン
Column 5 日本語の中のアジア――アジア文化のメッセージを探る [吉水千鶴子]
Column 6 語源から考えてみよう――専門用語の語源を知る [阿部淳一ピーター]
V 伝わることのメカニズム
21. 伝わることの心理学 [袰岩奈々]
(1)ココロのすごい力
(2)十人十色を実感する実習
(3)バックグラウンドの違い
(4)気持ちを伝えるノウハウ――DESC法
(5)ココロが伝わる
22. 情報を受容する脳 [杉野一行]
(1)ヒトが使える情報
(2)情報と脳
(3)世界は自分が感じたとおりではない
(4)情報は組み合わさってこそ意味がある
23. 情報を理解する脳 [杉野一行]
(1)抽象情報は記憶から誘導される
(2)記憶情報と照合が理解のカギ
(3)共通概念を構築できるか
(4)本質的な理解を促すには
(5)右脳と左脳が納得しないと腑に落ちない
あとがきに代えて [野村港二]
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