空気の汚れは知覚しにくい.大気に多量の汚染物質が放出されるようになったのは18世紀末からの産業革命以降であるが,人間への健康影響が指摘され大気汚染防止への理解が進んだのは日本では1950年代のことであった.また日本で室内空気の化学物質による汚染が認識されるようになったのは,建物の気密性が高くなった1970年代からである.
空気汚染という言葉は,昭和38年度刊行の東京国立文化財研究所(当時)紀要『保存科学』1号で関野克が著した「文化財保存科学研究概説」の中で用いられている.江本義理は化学者として大気汚染・室内汚染と用語を使い分けていたのに対して,門倉武夫は文化財の周辺空間の大気の汚れ全般を空気汚染と呼んだ.
空気に微量に含まれる汚染物質は,文化財材料表面の性質を大きく変化させ,経年劣化とは異なるメカニズムで物質を変質し,劣化を促進させる.比較的短時間で生じる不可逆的に進む化学反応であり,その文化財に与える影響は多大である.
室内空気汚染の問題に著者が着手したのは1989年のことである.造りたてのコンクリート造施設内では「アルカリ因子」が文化財に悪影響を及ぼすことから,新築の博物館・美術館に対する文化庁の事前協議の中で,開館は竣工後二夏を経てからという指導が行われており,実際に偏酸・苛性試験の結果が悪くて開館を延期した施設もあった.そこで著者は,博物館・美術館等での文化財の安全な展示を進めるためには,文化財公開施設の現状を把握して新築の博物館・美術館内を汚染している化学物質を定め,その発生源や室内挙動を明らかにすることが発生量の低減あるいは抑止対策に不可欠であると考えて研究を開始した.
研究では現場の関係者と協力しながら問題に取りくむことで,展示収蔵空間の室内汚染に対する空気清浄化技術の効果を検証することができた.具体的には,建設会社,展示ケースメーカー,調湿材料メーカー,空気清浄関係の技術者や館の設計者,特に一度新築の建物で環境制御に苦労した学芸員との情報交換や,年間50件ほど新築・増築・改修される各現場への応用と精密測定による緻密な追跡調査の結果を基にして,今日の清浄化技術が開発された.現在では,あらかじめ施設の計画段階で十分に備えておけば,竣工後3カ月程度で安全に文化財を収納できる清浄空間を作れるようになった.これまでにお世話になったすべての関係者の方々に感謝を表したい.
本書は,2008年12月に東京文化財研究所で行った中級研修「博物館・美術館等の空気環境最適化のための基礎と実践」を元に,各講師が分担して書き起こした.研修では,主に室内環境中の汚染物質の影響とそれらを制御するための管理方法と建物設備について解説し,空気環境測定のための業務委託仕様書作成と報告書解読のための知識獲得を目指した.本書では,学芸員が館の管理業務に関係する技術者と対話できるように調査の流れについて解説し,技術者に提示すれば調査目的や方法まで理解してもらえるよう,技術的に踏み込んだ内容まで記述した.学芸員の方々にはやや難解な部分もあるかと思うが,ご容赦願いたい.
最後に,研究を導いていただいた東京文化財研究所の諸先輩,同僚の皆さんにお礼を申し上げたい.特に,細かな校正作業におつきあいくださった市川久美子氏に,心からの感謝を捧げたい.
2010年3月
執筆者を代表して 佐野 千絵