「このやろう。針を三回も刺しやがって!どうしてくれるんだ!」
「すみません。血管が細かったものですから。」
少々凄みのきいた患者さんが,若い看護師相手に怒鳴り散らし,彼女は泣き顔で平謝りしている。患者さんが遠巻きに恐ろしげにこの光景を見ている。
みなさんは,病院やクリニックの外来や病棟でこのような光景に出会ったことはないでしょうか。程度の差こそあれ,多くの患者さんが経験しておられるのではないかと思います。
今世紀に入って,医療は大きく変貌してきています。低医療費政策がもたらした「地域医療崩壊」は深刻な社会問題となり,世界的に高く評価されてきたわが国の医療が危機にさらされています。頻発した医療事故をはじめとする医療安全問題も深刻です。医師不足・看護師不足もこのような医療崩壊を加速させています。
このようにわが国の医療の危機的状態には様々の原因がみられますが,そのうちの重要なものの一つに冒頭のいわゆる「モンスターペイシェント」問題があります。医療はいうまでもなく患者側と医療側の良好な関係の上に成り立っているのですが,一部とはいえこの患者─医療者関係を「ぶち壊して」しまう人々がいます。その結果,大多数の患者さんが迷惑を受け,医師や看護師をはじめとする医療者を萎縮させたり,辞めさせたりすることになり,医療崩壊はさらに進んでいくことになります。
本書は,このような状況を憂え,いわゆる「モンスターペイシェント」とはどのようなものか,その出現の原因は何かなどを解説しました。さらにこれらの人々にどのように対処すべきか,個人のみならず病院・クリニックが組織としていかに対応すべきかを実例をあげながら具体的に提案しました。
本書を企画するに当たり,医療現場の状況と法的判断の両者が必須と考え,医師と弁護士の共著とすることにしました。二人でこの問題の本質を夜中まで徹底的に議論し,いかにしてこのような「モンスターペイシェント」を排除し,国民のための医療を回復できるかを追求しました。本書の巻末に「対談」を掲載しましたが,そこにポイントが示されていると思います。読者のみなさんが読みやすいようにと,多くの図表,さらにイラストを挿入しました。参考になる文書も加えました。
重要なことは,一部の人々の心ない行為によって国民全体の医療が破壊されないようにすること,病院・クリニックなどが医師・看護師などの個人の責任とせず組織として対応すること,そして患者さんと医療者のより良好な関係を構築すること,結果として,進行する「医療崩壊」を食い止め,わが国の医療を世界に冠たるものにすることなのです。私たちは,その実現の一助となることを祈って本書を書き上げました。医師・看護師をはじめとする医療者のみでなく,心ある国民のみなさんのお役に立つものと考えています。
最後に,ご協力いただいた獨協医科大学病院医療安全推進課のみなさん,最後まで粘り強く本書発刊にこぎつけていただいた医学評論社のみなさんに感謝申し上げます。
2011年11月
寺野 彰
角藤和久
七時間の大手術が終わった。
「手術は,予定通り終りましたよ。」
「あっ,そうですか。で,おいくら位するんですか。」
「………」
ある著名な脳神経外科医は,驚くほどの手術件数をこなし,極めて高度な脳の手術に数多くの実績を残している。そのモチベーションは,一人一人の患者,家族の心からの笑顔,感謝の念に支えられている。ところが,最近は,手術はうまくいって当たり前,何か問題が残ると,すぐに医療ミスではないかといった感覚で対応する患者,家族が確実に増えているような印象があると述べている。冒頭のやりとりは,それを象徴するやりとりである。
本書は,医師ら医療者と患者,家族との相互のあるべき,より良い信頼関係を模索する中で生まれたものである。決して両者を対立する構造とみるものではない。
病気の克服は,患者自身が,自らの病気に負けずに必ず治ってみせるという前向きの気持ち,それも,信頼するこの医師の指導に従い,その治療のもとで治るぞという気概が根底に求められる。それに対応して,医師も,その患者の信頼に応えて,常に十分な説明を怠らず,期待されるレベルの治療をつくす。そのようなあるべき両者の関係が求められている。
その関係の実現に大きく立ちはだかってきた要因の一つが,モンスターペイシェントと言ってよい。
一部の患者,家族が,余りに自己中心的になり,その主張を強引に貫くとき,他の多くの患者らに円滑な診療を受けられない事態を招き,また想像以上の困惑と恐怖心を与える結果となることを本書を通じて知って頂けたのではないかと思う。
本書で指摘した通り,現実には,一部にモンスターペイシェントは間違いなく存在する。本書は,大多数の患者,家族のために,また多忙を極める医療者のために,冷静に淡々と対応するノウハウを提供し,被害の拡大を防ぎ,すみやかに円滑な医療体制を回復することを祈念して生まれたものであって,大いに活用して頂ければと思う。
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